斉藤哲夫君の訃報

東京も仙台もマンボウが発令され、東京はそれまで順調に来てたので、影響は限定的かと思われましたが、やはり8時と9時の1時間の差は大きいと思い知らされています。一方、仙台の方は3月終盤から崩れ始め、4月6日からのマンボウ以降は壊滅的状況で、数字だけで言えば開けてる意味がない状態です。東京の時短に応じてない店は相変わらず盛況で、マンボウ下においても勢いは衰えていません。
こんな飲食店の状況の中で、去る二月に、我々がオープン来付き合ってきた酒屋の斉藤哲夫君が、長い白血病との闘病を経て亡くなりました。最近では白血病よりもその後遺症である白内障の治療を頑張ってたようですが、つい最近再発したようで急な展開だったようです。
2004年に我々が恵比寿店を開いた頃は、世の中は芋焼酎ブームで、我々日本酒の居酒屋でも結構芋焼酎が売れてました。その頃は我々も、紹介された都内有数の地酒屋であった四谷の鈴伝としか取引をしておらず、斎藤君はそこで若くして番頭のような働きをしてて、思いっきり日本酒への情熱を注ぎ込んでました。
自腹で旅費を払って日本各地の酒蔵に赴き、東京では無名の酒を開拓してきたり、斎藤君と同世代の若い作り手をうちの店にも連れてきてくれたり、酒の会に行くと多くの日本酒ファンの人気者になってたりして、当時の日本酒マーケットを活性化させてる一員でしたね。相模灘、陸奥八仙、花陽浴、房島屋、奥、大正の鶴など、他にもいっぱいありますが、私にとっては斎藤君銘柄です。
闘病中にしばらく仕事から離れてましたが、その間に世の中は獺祭を始め日本酒ブームに入りましたが、復帰後は自分で酒販免許を取って「革命君」という屋号で自分の酒屋を立ち上げて、東京でまだまだ知られてない地方の酒蔵を開拓し続けてましたが、志半ばで彼の革命は終わってしまったのかも知れません。
彼には長谷川酒店や中田英寿のように派手な仕掛けやマーケティングセンスはなかったかも知れませんが、それでも多くの東京の古い日本酒ファンが、そういえば四谷に日本酒ブームになる前から頑張ってるやついたよねと覚えていると思います。本人も最初に死を覚悟した時に、mixiで「少しは日本酒界に貢献できたかな」と呟いてたのを私も覚えてます。もし日本酒の歴史の教科書があって2000年代のページを開いたら、「そこに斉藤哲夫という若者が地方の小さい蔵と一緒になって、日本酒の楽しさを広めようと頑張ってた」と、小さくでも書かれてたら彼も喜ぶでしょう。
